第2フォルマントと私

今日はとても調子がよかった*1のでお風呂で喉歌を唸ること30分。それで思い出したこと。

私が喉歌をある一定以上の頻度で真剣に練習するようになった直接のきっかけはタルバガンの嵯峨さんのWeb Pageにあったトゥバの喉歌でいうスグットのインスタントなやり方をみたからなのだが、それを遡ればそのページに出会う半年ほど前に等々力さんのワークショップを受けたこと、さらに遡って高校生の頃、当時かなりトンがったサブカル誌であったQuick Japanで知った口琴、そして口琴を手に入れるためには(コイズミ楽器というすごい近場にあるとは知らず)東京は中野のタコシェまで行かなくてはいけないと思って行った東京で偶然出会ったディジュリドゥ、そしてWebでディジュのことを検索することで再発見したコイズミ(もうこの楽器屋には今や50万円ぐらい投資*2している)に戻ってくる。不思議な螺旋を描きながら、私は徐々に第2フォルマントの魅力にとりつかれていくことになったのだった。

私の楽器履歴は、

  1. ドラム
  2. 口琴
  3. ディジュ+ダラブッカ
  4. 喉歌
  5. 龍笛バンスリ

と、楽器に自分の肉体を直接作用させるもの*3から順に少しずつ、まぁ一部退化しながら徐々に進化していっている。この不思議なスパイラルは、でもそろそろ第2フォルマントを脱しつつあって、喉歌はたぶん呼吸器系統がやられるまで続けると思うけど管楽器に関しては私の中ではもうディジュは3年前をピークに終わりつつある。いつだったか忘れたが吉田アミさん(id:amiyoshida)が自らのハウリングヴォイスという表現方法が自分の持つ疾患に関わる根源的なものだった(と書くとアミさんが精神疾患の持ち主のように聞こえるけど彼女は体の病気持ちだ。CPKが30,000近くまであがって死にかけたらしい)のだ、といった記述を読んだように記憶していて、たぶん私の楽器遍歴もそのときの精神状態を如実に反映しているものだと思う。
たとえば、金管楽器であるディジュは、唇に強いプレッシャーをかけて吹く、いわば緊張の楽器だと思っている。緊張は摩擦と怒りを想起させる。私が酷い鬱で、というのは私の鬱は激越性の鬱だったのだが、その中に湧く怒りの感情をはき出すのには格好のアイテムだった。当時の恋人をして“あなたがディジュを吹いている姿は正視できない。”と言わしめたぐらいだ。
一方、喉歌はペンタトニックスケールを基にした郷愁を誘うメロディで、それほど喉を絞めるわけではないし、むしろカルグラなんかはとても弛緩させないとうまく音がでない(ピッチが高くなるとこの限りではない)ぐらいの弛緩の発声方法だ。これは特に疲れているときはホーメイはしたくないけどカルグラならできる、とか気分がもろに反映される。

まぁなんだかまとまらなくなってきたけど無理矢理まとめると精神状態と自分の表現形態はとっても密接にリンクしているのだということを強く感じた一日だったというわけです。これは今日デイケアで気功をしてきたこととも関連していて。

*1:私の“調子がよい”は躁でも鬱でもない、という意味だ

*2:いろいろな楽器を購入したということ

*3:うまく言えないけど要するに原始的なもの